今から40年ほどに前,本で田老町の津波について読んだ覚えがある。「津波」というタイトルだった。いま,その本を探しても見当たらないので,本当にあったのかどうかもわからないが,うる覚えの私の記憶を掘り起こしてみると・・・。
 江戸時代に起きた津波。田老町に67mというとんでもない津波がやってきて,田老町が全滅。江戸時代に1度でなく,2度も村が全滅したと。
 田老町には昔から「大きな地震があれば,赤子を捨ててでも逃げよ」という教えがあった。「母親が赤ちゃんを抱いて逃げては足手まといになる。命が助かりたいなら赤ちゃんを捨てて逃げよ」という厳しい言い伝えである。
 今回,その記憶に少しでもせまることができたら,という思いと,過去何回もの津波の被害を受けてきたのに,なぜ10mの堤防で安心したのか,そんなことを考えながら田老のスーパー堤防の上に立った。 
巨大堤防といわれてきたのに,みるかげもなかった。周囲の建物もなくなり,堤防の多くも崩れている。   
 
クロス部分。中心から北東に延びる部分は崩壊している。
中心から南東に延びる堤防。
手すりがすべて東から西に曲げられている。
残った防潮堤から海のほうをながめる。
 
堤防の東の端 クロスから北西に延びる堤防は破損がほとんどない。
木の生えぎわまで津波やってきた 津波到達地点 田老漁港の東で30m
 
 田老の湾は南東に開いている。震源の方向に開いている湾は高さが大きくなったのではと考える。2012.7月17日現在,宮古から久慈まで続く第三セクターで運営されている北リアス線は回復し開通している。田老駅や線路はスーパー堤防の内側にあり,ある程度スーパー堤防が防波堤の役割を示し,波を抑えたのかと思う。
 田老漁港の東側の坂は防潮堤の外側にあったので,波の方向に直角方向ではないものの,坂の上の方まで波が遡上していたことがわかる。高さは30m近くに及ぶ。
 
 
津波が来る前(ネットより)
  案内してくれた三社タクシーの大倉さん。「10mの堤防ではなくて,15mあったら助かったのに・・」と。
 津波の高さは10mをはるかに超えていた。津波の高さは平均海水面(長年,験潮場で観測された海面の平均の高さ。いわゆる0mである。)からの高さをさす。山際の津波の到達地点は遡上高といい,陸地をかけのぼった最高の地点をさす。田老町小堀内地区では遡上高が37.9mに達した。
 津波が湾の中に入ってくると地形の影響で複雑な動きと高さになる。10mの高さの上をはるかに超えていったたころではむしろ防潮堤の崩壊は少ないように感じた。

 今回,防潮堤があったからこそ大きな被害なったとも言われている。1960年のチリ津波から田老の防潮堤で田老は守られた。チリ津波のあと,X字の堤防に補強された。
 東日本大震災の田老町での震度は5強。建物の被害もあまりでなかった。ゆれが大きくなかった故に,人々は津波は堤防で食い止められると考えたのかもしれない。
 タクシーの運転手さんのように,「さらに高く,15mであったら」と考えるが,15mの防潮堤でも,どこか一カ所でも崩れたら,田老を守ることはできない。
 津波の動きや高さは,海底地形,湾の地形,震源の位置によって変わる。「何メートルの高さの堤防をつくればいいのか?」「費用はどれくらい?」「景観は?」と考えるなら,堤防などつくらない方がいい,ということになる。

 田老の堤防の上でいろいろ考えたが,疑問は解決できなかった。
津波直後(ネットより)
 
北西から南東に延びる防潮堤の上から,
津波到達地点(南東)の石碑のほうを見る。
 現在の田老漁港
10mの堤防は高い
田老第一小学校に続く坂道から。
漁師さんが仮の家を建てて漁にでている。
堤防の上から。田老第一小学校は左(西)
     
「津波浸水想定区域」の看板は道路のあちこちにあった
 
  
田老の野球場はまだ瓦礫が積まれている。トラックの出入り口には・・