家族のことが心配で,探している間に津波にのみ込まれる,そんなケースが今回の震災で多かった。
 生と死を分けたのは何だったのか。東北地方の三陸海岸は何度も津波の被害を受けてきた。特に岩手県には「津波てんでんこ」「津波のとは赤子を捨ててでもにげよ」という昔からの教えが伝わっている。日頃から防災教育でこの教えを元に訓練してきたのが釜石東中学であった。
 今回,学校関係者が震災により命を失ったいうのは少なかった。もちろん石巻の大川小学校のような悲惨な例もある。しかし,震災で命を落とす者で小学・中学・高校生は少なかった。一つは学校が高台にあったケースが多い。土地の値段が高く,高台にしか学校が建てることができなかった理由もあったが,昔から津波を考えて高台に学校を建設して例も多い。
 また,高い堤防で守られているが,それに頼ることなく,「津波てんでんこ」を日頃から学び,訓練してきたところも多かった。
東(左)に中学,手前(北)に小学校 この道を突き当たりの山まで必死に走った。
  
 
   
 
 
 <河北新報社 2011年05月19日 木曜日 より>
   死者・行方不明者が約1300人に上る釜石市。大槌湾に面した鵜住居(うのすまい)地区は津波で壊滅状態となったが、鵜住居小と釜石東中にいた児童、生徒計約570人は全員無事だった。中学生や小学校の上級生が小さな子どもたちの手を引いて逃げるなど、両校の迅速な避難劇は「奇跡」とも言われている。あと4分、5時間目の授業が終わるのはもうすぐだった。激震に見舞われた午後2時46分。鵜住居小には1~6年生の児童約360人がいた。 「恐怖のあまり、泣いている子もいた」。当時6年生のクラスを受け持っていた横沢大教諭(28)が振り返る。
 指示はすぐ飛んだ。3~6年生は最上階の3階へ集まり、1、2年生は校庭へ出た。真壁信義副校長(49)は「申し合わせ通りの動き」と話す。
 尋常ではない揺れ。外を見れば、隣接する釜石東中の生徒たちがバラバラになって南へ走っている。教師たちは即座に「逃げろ」と号令を掛けた。時計は午後3時を指す直前だった。
 停電で放送機器は使えない。約20人の教職員は声を張り上げ続けた。「走るんだ!」。目指したのは南へ約600メートル離れた民間の介護施設「ございしょの里」。泣きじゃくる1、2年生の手を上級生が引いた。

 釜石東中の生徒約210人ら、介護施設に集まった両校の児童生徒は約570人。そこは指定避難所でもあった。施設の入所者や職員、近所の住民も加えると700人はいた。突然、中学校の教員が叫んだ。「裏の山林が崩れそうだ」
 子どもたちはまた、走った。目指したのは南に約400メートルの「やまざき機能訓練デイサービスセンター」。中学生は小学生と手をつないだ。大人も逃げた。
 ございしょの里に小学1年と4年の娘2人を迎えに来たパート及川真美子さん(32)は「迎えに来た親たちも、一緒に逃げた」と言う。
 午後3時20分ごろ。学校の方角を見ると、十数メートルの高さの津波が両校の校舎を丸ごとのみ、介護施設も襲い、迫ってきた。「逃げないと危ない」。誰彼となく悲鳴のような声が上がった。
 児童の一部はデイサービスセンター東側の山林を駆け上がり、残りはさらに南へ、走った。
 津波はデイサービスセンターの手前で止まった。想定浸水区域から1キロ先にまで達していた。
 鵜住居はすり鉢の底にあるような街だ。両校の北には大槌湾に注ぐ鵜住居川河口があり、南は山林が迫る。西はわずかに平地があり、高い建物などない。
 同地区では7割近い建物、市の被災全体の4割に上る約1800戸が被災したが、小中学校では一人の犠牲者も出さなかった。
 釜石東中の村上洋子副校長(53)は「日ごろの防災教育のおかげ」と語る。4年前から群馬大などと協力し、津波防災教育を授業に導入した。2年前からは年に1度、鵜住居小と合同訓練も実施。「小学生を先導する」「まず高台に逃げる」との教えを徹底してきた。
 三陸地方には、津波が来たら取る物も取らずてんでばらばらに逃げるという「てんでんこ」の言い伝えがある。
 「『てんでんこ』が大事だって何度も教わっていた。思いっきり走った」と、3年生の佐野凌太君(15)は言う。
 当日、欠席などしていた両校の3人は津波の犠牲になった。「奇跡」の裏には悲しみもあった。
(山口達也)
  
 
   
 釜石東中学・小学校
2012.07.18現在,釜石東中学の校庭はがれきの山である。
  
 東中学から南の道路を山まで走るとそこに津波の碑があった。