東北地方を中心に広範囲に被害がおよんだ東北大震災。特に三陸海岸をおそった津波は大きな爪痕を残した。死者・行方不明者は2万人を超える。2万人の死者が出たなら,その4倍以上の人が命は助かったが,津波の危険にさらされたと考えられる。生と死を分けたものは何だったのか。
 岩手県宮古から宮城県南三陸町までを北から南へたどったのが今回のルート。北から南に向かうにつれて,復旧が遅れている。瓦礫の処理がまだまだ進んでいない。内陸部からの交通の便,道路の復旧の差があるのかもしれない。
 また,必ずしも津波の高さが南に行けば高く大きな被害をもたらしたわけでもない。石浜には遡上高で40.5mの津波がおしよせた。その高さはまるで6階のビルの高さからみるようだった。しかし,その手前の姉吉の村では津波で命を奪われた人はいなかった。
 
<2011年3月30日07時22分 読売新聞より>
 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市。重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。
 1933年の昭和三陸大津波の後。海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り,住民は坂の上で暮らしてきた。
 本州最東端の魹ヶ埼灯台から南西約2キロ,姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉。
 地区は1896年の明治,1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ,生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後,住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
 地震の起きた11日,港にいた住民たちは大津波警報が発令されると,高台にある家を目指して,曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが,その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。
 地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
 
左に行くと姉吉・魹ケ崎
  
 魹ヶ埼灯台で7年間を過ごした灯台守の妻である田中キヨの手記をもとに製作されたのが, 1957年(昭和32年)に発表された映画が『喜びも悲しみも幾歳月』(木下惠介監督)である。
  
 
シートより向こうに姉吉の村がある。この石碑の手前まで津波がきた。
   
ヶ埼
 
 
 
ここから歩いて1時間半で魹ケ埼灯台
  
姉吉の海岸。何もない。  姉吉の海岸から上流を見る。この上に石碑,村がある。
   
石浜
 今回の津波の最大は40.5mを記録した石浜。道路を超え,神社の境内まで津波はかけあがった。30mの高さの道路からでも相当の高さであるが,境内からみると40mの高さが尋常の高さでない。
道路からみた石浜の漁港 道路から神社を見上げると・・
  
境内から見た石浜漁港。境内の鉄の棒も引き波の影響で海の方に曲がっている。 
 
宮古市の被害状況より